円谷幸吉の思い出


私が円谷を知ったのは、アベベが優勝した東京オリンピックのマラソン競技だった。当時は柔道一直線の生活だったことから、マラソンには縁がなかった。当時は日本での初めてのオリンピックだったことから、多くの日本人が、このマラソン大会のテレビ中継を、食い入るように観たことを思い出す。誰もが君原や寺沢の入賞を願っていたことだろう。しかし、その期待の二人は徐々に遅れ、残っている円谷も間もなく潰れるだろうと、テレビのある部屋からでていった。

Photo: 「東京オリンピック1964」フォート・キシモト&新潮社(2009)新潮社
Photo: 「東京オリンピック1964」フォート・キシモト&新潮社(2009)新潮社

暫くすると、その部屋が急に騒がしくなったことに気がついて部屋に戻ってみると、アベベに続いて競技場に入ってきたのは、誰あろうあの円谷だった。後ろからはイギリスのヒートリーがせまってきている。[円谷、後ろから来ているぞ。なんで気がつかないんだ!]。届きもしないテレビに向かって叫ぶ。狭い部屋は騒然となった。突然、声援が止まり悲痛な叫びとため息に変わったのである。数年後、自ら命を絶ったことをテレビのニュースや新聞で知った。それでも、円谷は英雄だと子供心に感じていたのを覚えている。

▲須賀川市芭蕉記念館に展示されていた当時の新聞より
▲須賀川市芭蕉記念館に展示されていた当時の新聞より

もう走れません、と円谷は遺書にしたためた。人間、もう出来ません、と言った際には、肉体的な要因と精神的要因に分けられる。肉体的にできない場合、医者の診断により客観的に説明できることが多い。円谷の場合、アキレス腱やヘルニアなどの病名が明確である。仮にメキシコオリンピックの候補に入らなかったとしても、故障によるものだから、非難されることはないだろう。円谷はそのことは、十分わかっていた。ただ人前では、メキシコでメダルをとる、また頑張る、たとえ這ってでもとる。と言わざるを得ないし、世間は結果の如何に関わらず、それでいいという風潮はあっただろう。約束したことが守れないこともあることはわかっていた。東京の後のレースの成績低迷や故障の状況からオリンピックは無理なことはわかっていた。負け戦とわかっていても、最後まで弱音を吐かず、自分の信念を押し通す、それが須賀川の国民性だ。

 

その県民性を知る手がかりは400年前の大乗院と伊達政宗、150年前の明治維新ではないだろうか。NHK大河ドラマ「八重の桜」をみているとその県民性を理解することができるように思う。矢が折れ刀尽きるまで、戦う。決して諦めず、白旗も挙げず覚悟を決めて最後の最後まで戦う。かなわないとみるや逃げるのは卑怯ものだ。ならぬものはならぬ。惨めな最後は見せない。武士道は潔さである。頸動脈を切るのは、切腹と同意ではないだろうか。無念さはここに極まったのかもしれない。死ぬのであれば、飛び降り、飛び込み、入水、ガスの選択肢もあったはずだ。自殺を美化する気持ちは毛頭ない。しかし、円谷幸吉のごとく努力をしているのだろうか、という問いかけが、己の頭の中を駆け巡っていることも事実だ。

 

東京オリンピックで、公衆の面前で抜かれたことは、彼にとって屈辱にほかならなかった。戦後初のメダル獲得、マラソン3位という輝かしい成績を残したにもかかわらず、その悪夢のような光景が、最後まで彼の脳裏に焼き付いて離れない。 自衛官という職業柄、その後の各駐屯地での講演は実施せざるを得なかった。称賛の声とともに、毎回言われたことは、「なぜ、抜かれたの?」という言葉だったろう。その言葉は、悪魔の声のように響いてくる。父親より「後ろを振り返るな!」と、常日頃より教えられてきたからだ、という声が多く聞かれるが、その真意は、義理と恥の文化をもつ「武士道」の中にあるようだ。常に全力を出して走り切れ、という戒めから、市民ランナーの星:川内優輝の走り方がイメージされる。 

 

円谷幸吉に許嫁がいたことを、随分たってから知った。円谷幸吉はメキシコオリンピックまで待っていてほしかったのだろう。しかし女性にしてみれば、自分よりマラソンを選択したことに相当なショックを受けたにちがいない。その彼女も、悲しみと苦しみを背負って生きている。2020年の東京オリンピック開催が決まったことで、再び、マスコミが騒ぎ出すかもしれない。そっとしておいておきたいところだ。円谷は、結婚をすると、自分の使命ともいえるマラソンに集中できなくなるかもしれない。それが結果的にオリンピックの成績どころか、その候補としても上がらなくなるかもしれない、と思い込んでいたのだろう。幸吉は、愛しい女性との結婚を躊躇していた。

 

あの東京オリンピックで、メダルを期待されながら、8位に甘んじた君原はその苦しさから、マラソンを断念することも覚悟したようだ。しかし、その時に新しい伴侶を得て見事に復活し、ボストンマラソンで優勝した。君原がダメージを受けたのは「精神面」だったのだ。「身体面」は何もダメージを受けてはいない。結婚という精神面のサポートで君原は立ち直った。円谷は、その現実をみて焦る気持ちを、マラソンの練習で払拭したかったのだろう。結果的に体が壊れるまで走ってしまった。「身体面」がダメージを受けた後の「精神面」を補強は難しい。もう身体は元に戻ることはないからだ。

 

市民ランナーの星:川口優輝は、2012年のロンドンオリンピックの選考会でもある、東京マラソンで上位を期待されながら、沈んでしまった。また高梨沙羅は、2014年のソチオリンピックで金メダルを期待されながら、4位に終わった。川口優輝も高梨沙羅も、年齢も含め「身体面」は充実している。若さという可能性もあることから、精神面で潰されることはなかった。

 

一方、浅田真央はやはり金メダルを期待されながら、SPで失敗を繰り返し、絶望的順位に下がってしまった。「身体面」は全く問題ない。見えないプレッシャーに押しつぶされてしまったのだろう。奈落の底に落ち込んでしまった「心」。さらに森喜郎の「あの子は、大事なところで、いつも失敗するんだよな。」という発言が追い打ちをかけた。この状態に陥ったら、通常は立ち直ることは難しい。しかし、翌日のフリーでは、開き直ったのだろうか、いつもの自分を取り戻していた。フリーの演技終了直後の場面を思い出すと、いまも、あの感動がよみがえる。大したものである。これまでの練習の苦しみに耐え抜いた精神力が、彼女を立ち直らせたのだろう。人間、何度も修羅場をくぐり抜けると、精神力が鍛えられる。

 

それは、ひとえに、その本人を取り巻くいろいろな人々に支えられたからだ。マラソンは一人ぼっちのスポーツだと言われるが、そんなことはない。柔道や水泳もいうなれば、一人のスポーツ。しかし、監督やコーチという指導者がいる。一般の人でも、健闘をたたえあう仲間がいる。そして家族がいる。円谷幸吉の婚約が破談になったのは、上官に反対されたことのように書かれている文献が多い。上官も、また苦しみにさいなまれていることだろう。しかし、それは単に円谷幸吉の気持ちを代弁してくれたに過ぎないのではないだろうか。自分の決断に迷いがある時、信頼のおける人に相談することは、ごく自然の振る舞いだ。上官の言葉に後押しされ、彼は結婚を断念したのだ。精神面の支えなしに、次第に身体も壊れていく。結果として、自らの命を断ってしまった。わずかなきっかけで、円谷は立ち直おることができただけに、とても残念でならない。

 

「身体面」と「精神面」がダメージを受けても、どちらかが復活すれば、立ち直ることができると信じている。現代社会において、心を病む人は数多くいるという。しかし「身体面」が生きていれば、いつしか「精神面」でも立ち直ることができる。「身体面」がダメージを受けても、「精神面」にダメージがなければ、やり直すことができる。双方にダメージを受けたときには、この「円谷幸吉」を思い出すといい。自分は、それほどまでに努力をしたのか、と。わたしは、心に中に円谷幸吉がいる限り、同じ轍は踏まないと、断言したい。忍耐のランナー円谷幸吉の偉業を讃えつつ、感謝とともに改めて冥福を祈りたい。

 

合掌

円谷幸吉の足跡をたどる


円谷幸吉は、就寝時や入浴時に洋服をキチッとたたみ、旅行先からは必ず手紙を書くことから、几帳面な男として知られている。しかし、これは軍隊生活を叩き込まれた父親の躾のようだ。その意味から、几帳面と言うよりも、従順といった方が正しいだろう。高校時代の長距離の成績があまり芳しくなかった。1959年(昭和34年)、自衛隊に入隊、本人の希望もあり郡山駐屯地に配属された。

 

先輩の下士官である斎藤章司にめぐりあい、課業の後、練習に励んだ。日曜日には、ふたりで郡山から須賀川までの約20kmを走り、実家でたらふく飯を食べ、郡山に戻ったという。とにかく走ることが楽しくて仕方ない、もっとも充実した時期だった。

 

しばらくは、ローカルなレースに出ていたが、次第に注目されはじめ、青森-東京間駅伝でよい成績を残した。やがて、1964年の東京オリンピックへ向けた自衛隊の金メダル養成所ともいえる自衛隊体育学校が、1962年(昭和37年)開設された。

 

選抜記録会で持病の腰部のカリエスを発症させたが、後に教官となる畠野洋夫の後押しもあり、入校することとなった。1962年(昭和37年)夏、5000mと1万mに優勝したことから、ニュージーランド遠征に参加。ここで君原や寺沢と出会う。さらに2万mで世界新記録を、帰国後も、5000mで日本記録をたたきだした。

 

1964年(昭和39年)2月、校長の吉井のところに往年のマラソンランナーの村社講平と山田敬蔵が訪ね、マラソンの出場要請をする。マラソン選考会である毎日マラソンに参加。君原健二に続き2着に入った。3着はベテランの寺沢である。その後の練習には、体育学校の南三男と宮地道雄が加わった。

 

オリンピックの1万mでは、決勝まで進み6位に入賞。ベルリン大会以来、28年ぶりの快挙である。マラソンの始まる午後1時、須賀川の市内の人通りはまったく途絶えたという。

須賀川出身の円谷幸吉は、1964年の東京オリンピックでアベベに続いて国立競技場に戻ってきた。しかし、観衆の面前において英国ヒートリーに抜かれ、結果的に3位となった。戦後初めてのマラソン「銅メダル」獲得は、多くの大衆の期待にこたえたものであり、その功績は大きい。しかし、大衆の目前で抜かれたことは、本人にとっては、屈辱そのものであったのではないだろうか。このことは、その後の人生に大きなしこりとして残った。その後開催された数多くの講演で、4年後のメキシコオリンピックでは、2位以上の成績を確約せねばならなくなってしまったのだ。それほど、国民の期待は大きかった。

▲1964東京オリンピックマラソンの号砲が響き渡る(円谷幸吉メモリアルホール内VTRより)
▲1964東京オリンピックマラソンの号砲が響き渡る(円谷幸吉メモリアルホール内VTRより)

その後、円谷は、青梅マラソン、水戸マラソンで負けた。1967年(昭和42年)8月椎間板ヘルニアと腰痛から併発した、アキレス腱の手術。退院は11月。12月30日に須賀川の実家へ帰る。正月、国道4号線を走る。しかし、10分も走れない。1月3日に帰るが、隊に戻ったのは、2日後の1月5日だったという。そして1月9日の朝、自室で自刃した円谷が発見された。

 

沢木耕太郎は著書「敗れざる者たち」の中で、「『メキシコに出場できないとしたら、自分はどうして彼女と離れなければならなかったのか』と考えたに違いない。」と述べている。「『なぜあなたは死んだのか』と問えば、『なぜあなたは生きているのか』と問い返されるだろう」とも続けている。

1964 東京オリンピックがもたらしたもの


君原は、メダルの最有力候補と期待されながらも、結果的に8位の成績で終わったことから引退を考える。しかし、幸運にも愛する人に巡り合うことができ、やがて失意のどん底から立ち直った。その応援があってか、1966年のボストンマラソンで優勝することができた。

 

 一方、円谷は、講演など多くのメディアに引き回されることで、練習量が落ちていく。君原のボストンでの活躍を聞いて、より以上に走り込んでいったことだろう。結果的に、持病の椎間板ヘルニアを再発させ、さらにアキレス腱の切断と苦難が続いた。その後三カ月の入院生活を送るが、復活は困難なものとなった。加えて、自らの選択とはいえ、愛する人との別れは、大きな痛手となったようである。

 

 メキシコ五輪を迎えたその年、「もうすっかり疲れきってしまって走れません。」の言葉を残して、円谷は自らの命を絶った。遺書は、それまで支えてくれた両親や親戚への、食に対する感謝の言葉で始まる。それは命懸けで走り抜いた27年の人生を、彼なりの美意識で表現した辞世の句でもあると人はいう。川端康成、三島由紀夫、野坂昭如など、良否は別として、その評価は高い。

 

円谷が亡くなった後のメキシコオリンピックで、君原は銀メダルを獲得。君原は、競技場に2番で入ってきた。3番目には、ニュージーランドのライアンが迫ってくる。円谷は「男たるもの、後ろを振り返ってはならぬ!ひたすら懸命に走るべし!」という父親の教えから、競技場に入ってからも振り返ることはなかった。君原は、そのことを思い出し、思わず振り返ったという。そして、2番手を死守した。 

 

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円谷の生まれ故郷である須賀川でメモリアル大会が開催されたのは、15年後の1983年のこと。君原は、いまもってこの円谷メモリアルマラソンにも参加している。そして、宿泊所の裏手にある十念寺の墓に参り、缶ビールを空け、円谷と飲み交わす。2016年のボストンマラソンには、歴代の優勝者が集うという。君原は、円谷の魂を携えて走ることだろう。

1967 青梅マラソンとのかかわり


青梅では、毎年2月の梅の花が咲く頃、30kmのロードレースが行われる。第1回のレースは、メキシコオリンピックの前年の19672月。以来、「青梅マラソン」の愛称で、毎年、開催されている。以下は優勝者だが、国内の陸上のトップランナーが名を連ねる。青梅の山間を走る青梅マラソンは、長距離陸上競技者の登竜門ともいえる。

▲青梅マラソン1978記録書より
▲青梅マラソン1978記録書より

19672月の第1回青梅マラソン。その標語は「東京オリンピック銅メダリストの円谷幸吉と走ろう!」だ。こころ優しい円谷は、市民マラソンの新しい形態に興味を持ったのだろうか、東京オリンピック以来の長距離レースとして、この青梅マラソンを選択した。その準備期間が半年から1年とすれば、君原のボストンマラソンの優勝が19664月であることから、この快挙を意識していたことは間違いないだろう。

 青梅街道を奥多摩方面に走る青梅マラソンのコースは、厳しい坂路が連続する。しかし、どことなく、須賀川のコースに似ているように思うのは、わたしだけではないだろう。東京にいながら、手軽に須賀川のような坂道が楽しめる、そう感じたのかもしれない。

しかし、途中、膝を痛め、はからずも若松軍蔵が優勝した。満身創痍の身体とはいえ、スローガンとして掲げられた記念の大会で、円谷は負けてしまったのだ。私自身、マラソンは不得手だが、「円谷幸吉と走ろう」の言葉に惹かれ、1978年の第12回大会より参加している。しかし、その標語も、1982年の第17回の記録からは、掲載されなくなってしまった。まるで、歴史から消え去ってしまったかのように。翌年の第二回青梅マラソン、およびメキシコオリンピックの年の1月に、彼はこの世を去った。

第48回青梅マラソン

第48回青梅マラソンは、2014/2/16 降雪のため中止となった。第11回(1977年)より、毎年のように参加している。来年の青梅にまた申し込むつもりだ。青梅マラソンのホームページに、その歴史について記載されている。(画像クリック)

第48回青梅マラソンポスター
第48回青梅マラソンポスター

青梅マラソンには、多くの新進気鋭の陸上ランナーが出場した。しかし、その歴代優勝者のリストに上がらない人の中にも、素晴らしい人々がいた。その一人は、もちろん第1回出場の円谷幸吉だが、青梅マラソンの長い歴史の中で、ただ一人1時間30分を切った男がいる。それが、1981年に出場した瀬古利彦だ。1時間29分32秒であれば、優勝のはずが、オープン参加であったために、歴代優勝者の中には入ることはなかった。あの、すれ違いざまに感じた、瀬古のぶっちぎりの凄さは、いまも脳裏に、鮮明に焼き付いている。前年のモスクワオリンピックに出場していれば、優勝は間違いなかっただろう。

1968 メキシコオリンピックの年


円谷は、久々に故郷の正月を、自宅で過ごした。父親、母親、そして兄弟たち、さらには親戚の方々に歓待されたという。この時に死を意識していたかどうかは定かではないが、その記憶は、見慣れた人々と過去の自分の姿を思い浮かべていたのだろう。円谷は、この帰省時に、元婚約者が結婚したことを聞いたという。

東京オリンピックでメダルを期待されながら、結果的に8位に沈んだ君原は失意のどん底の中で、よき伴侶を得て、やがてボストンマラソンで優勝。さらに円谷幸吉が、亡くなった年のメキシコオリンピックでは、意識朦朧となりながらも、銀メダルを獲得した


引き継がれるオリンピックのメダル

君原健二は、空気の薄いメキシコ1968で銀メダル。その後、ロサンゼルス1984で4位の宗猛、ソウル1988で4位の中山竹通と続く。バルセロナ1992では森下広一が銀メダルに、そして、女子では、有森裕子が銀メダルを獲得。アトランタ1996では、同じく有森裕子が数々の障害を乗り越え、銅メダルを獲得。「初めて自分で自分を褒めたいと思います。」とインタビューに答えた。有森裕子は、須賀川を訪れ、円谷幸吉のお墓にも手を合わせたそうだ。なにか、感じるものがあったのだろう。その後、高橋尚子がシドニー2000にて金メダル、野口みずきがギリシャ2004で金メダルを獲得。二人は、調整のためとはいえ、青梅マラソンでも、その能力を発揮した。


しかし、近年のスピードマラソンでは、もっぱりアフリカ勢に押され気味である。それでも、日本人としての誇りを持ち、一生懸命に走る姿を、これからも応援し続けたい。

そして日本の星となった


円谷幸吉の命日は、1月9日。勲六等瑞宝章を賜った。その日付は、1月8日となっている。現代でいえば、国民栄誉賞に匹敵する活躍だったと思う。

▲勲六等瑞宝章を賜る(1967年1月8日)
▲勲六等瑞宝章を賜る(1967年1月8日)

後年、地元の新聞でも、大きく取り上げられた。

▲須賀川市芭蕉記念館内に展示されていた当時の新聞
▲須賀川市芭蕉記念館内に展示されていた当時の新聞