円谷幸吉の伝言を想う

円谷幸吉の死を再考する


円谷幸吉には許嫁がいた。郡山の円谷幸吉ファンの一人である。ファンレターから交際が始まったという。この縁談は、円谷からの申し入れにより、破談になってしまったわけだが、それは、国を背負って生きていく使命感からなのか。未だに理解できないでいる。

 

その翌年の正月、幸吉はふるさとに帰り、家族や親戚と楽しく過ごした。ふるさとの正月料理は、なにもにもかえがたいご馳走そのものであったろう。同時に、団欒を心から楽しんだ。元許嫁が結婚した、という話を除いては。ふるさと須賀川を後にし、東京朝霞駐屯地で自ら命を絶つまで、2日ほど、行方が分からないという。きっと想い出の地を徘徊したのだろう。兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川。感涙に満ち溢れる円谷幸吉の姿が思い浮かぶ。

 

1月8日未明、一人静かに、頸動脈にカミソリを入れた。まさに自刃である。27歳の短くも太い人生だった。その行動を称賛するつもりは毛頭ない。しかし彼の死に様は、まるで切腹のように思える。武士道を貫く遺伝子が円谷幸吉の奥底にあったのかもしれない。少なくとも、介添え人がいたら、必ず止めるものを、と考えると残念でならない。敢えて非難するのであれば、いささか自分勝手過ぎたのではないだろうか。回りで悲しむ人の数は、計り知れない。マラソンは忍耐だというが、心の忍耐力がやや足りなかった。時代がそうさせたのだろうか。

 

人生は勝つに越したことはないが、負けることも大切だ。テレビのゲームも悪くはないが、脳体験とでもいうのだろうか、それにしても勝ち負けが浅過ぎる。脳だけでなく、身をもって体験しなければ、意味がない。どのスポーツ(ある意味、能動的行動全般につぃていえる)にもいえることだが、己の限界を超えようと試みることに価値がある。そのためには、身体への苦しみや辛さを受けることになる。能動的行動のいいところは、苦しさに耐えきれなければ、止めればいいということだ。

 

一方、思考の世界は、能動的思考から始まることも多いが、しかし、深みにはまるとなかなか抜けきれない。受動的思考という表現がいいかどうかはわからないが、その限界に近づいていくと、もがき苦しみ、思考停止が困難になってくる。抜け出すよい方法は、その領域を離れること。そのテーマに関係のない友人と旅行したり、家族とともに温泉旅行にでも出掛けるのもいい。見知らぬ土地に、一人で旅をするのもいいだろう。旅先で、新らたな困難に遭遇すると、得てして、旧来の思考は離れていくものだ。とはいえ、精神的な苦悩は、その深みに落ち込むと、思考解除はとても難しくなることは否めない。


 

日本の自殺者は、平成10年に年間3万人を越えた。自殺する理由はいろいろあるだろう。

 

しかし、死ぬ前に想い出してほしい、円谷幸吉のことを。幸吉の遺書も読み返してほしい。円谷幸吉は、きっと、体の忍耐力もさることながら、心の忍耐力もつけてほしい、と願っていたのかもしれない。それは、何事も受け止める力、受容力あるいは、寛容力とでもいうのだろうか。いまだに答えは見いだせない。

円谷幸吉の伝えたかったことは何だったのか


円谷幸吉は、家族あておよび上官あての遺書を残して亡くなった。遺書は、まだこのほかにもあったと思うが、この2通を読めば、私を含め一般人には十分である。円谷幸吉の伝えたかったことは何だったのか。遺書のふたつの言葉に、その思いが隠されているものと感じた。

 

「立派な人になってください。」

その死に様が立派かどうかは、個人の考え方により異なるだろう。勲章まで貰いながら、その後の凋落ぶりは、自分としても許されることでは無かったのか、少なくとも円谷は立派だとは思わなかったようだ。それだけに、後に残った子供たちには、同じ轍を踏んで欲しくない、という気持ちを抱いたとしてもおかしくはない。

 

一方で「立派になって下さい」の中には、円谷幸吉が定義する「立派」なことをやって欲しいという願いが込められていたようにも受け取れる。「立派」なことが何かは、円谷自身も具体的にはわからなかったのかも知れない。推察するに、自分を指導してくれたよい経験から、優れた陸上競技選手の育成したいということを、想い描いていたようにも思われる。

 

大きな大会で、たとえメダルは獲れなくとも(あの君原だって負けることあるんだ、と学習した)、自分の納得できる走りをし、ランナーとしての使命を全うする。やがて、斎藤や畠野のような指導者になって、次世代のマラソンランナーを育成し、オリンピックでメダルをとらせる。メダル獲得により、それまで応援してくれた人や、国に恩返しするができるようになる。

それが、円谷の描いた[立派な人]像だったのかもしれない。

 

「幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」

 

引退後は、故郷に戻り、昔走った須賀川の山を走りたいと感じていたことだろう。正月を須賀川で過ごし、東京の宿舎に戻るまで、空白の2日間、帰るべき故郷を巡っていたのだはないか。父母の家で暮らしたいということであれば、「側」ではなく[傍]と書くはず。「側」とは、須賀川の地を含め、親戚や友達の住む場所そのものを指している。いつでも帰れる「故郷」に骨を埋めたかったのだ。

 

円谷幸吉メモリアルマラソン大会は、円谷幸吉の意思を十分引き継いでいるものと、参加してみて感じた。しかし、円谷は、それ以上に、陸上競技を始めスポーツを愛する全ての日本青少年の育成を頭に描いていたのかもしれない。

 

須賀川の山河を想い起させる青梅マラソンで、自分と一緒に走ってくれる人がいる、ということに大きな喜びを感じていたのだろう。一人で練習するしかない円谷にとって、市民ランナーとともに走る喜びを堪能できたことは幸いであった(その青梅マラソンで、2位に甘んじたことを除けば)。