青梅と須賀川がスポーツでつながった

わたしがマラソンを始めたきっかけ

引越し先の青梅は何もないところだった。梅の咲くころ、マラソン大会があるというので、早速、家から5分ぼどの青梅街道の沿道に行ってみた。そこで見たものは、人が懸命に走る姿と、盛んに囃し立てる沿道の人々だった。これはお祭りだ。元来イベント好きの血が騒ぐ。参加したいとは思うものの、500mのランニングさえも走れない、柔道出身の扁平足にはどだい無理な話だった。

 その年の夏、妻が妊娠した。つわりが厳しく、見るに忍びない。変わってあげたいとも思うが、こんな時、男は何もできないのである。翌年2月には出産という大仕事があるわけだ。代行をするわけにもいかず、思い悩んでいる時、あの青梅マラソンの募集があった。30kmは走れるわけもない。出産の苦しみを肩代わりできるわけもない。無謀な挑戦ではある。が、自分も限界を越えた苦しみを味わうごとに決めた。1979年のことである。

 案内書を読むとこのマラソン大会は、1964年のオリンピックで戦後の陸上競技で初のメダリストに輝いた円谷幸吉がいる。その[円谷幸吉と走ろう]という呼び掛けで始まったマラソンであることを知った。円谷幸吉はかのオリンピックでゴール寸前に抜かれ結果的に銅メダルを獲得した陸上競技界がダークホースだ。しかし、メダルをとったものの、大衆の面前で抜かれてしまった印象が強い。

 自分の冠レースともいえる青梅マラソンでも結果的に山田軍蔵に優勝され、その翌年のメキシコオリンピック開催年の初め、自ら命を断ってしまった。銅メダルをとったほどの男が、なぜ負けてしまったのか、なぜ死ななければならなかったのか。メディアはその残された遺書からいろいろ推測するが当然のことながら真相はわかるはずもない。

 少年の私には、結局、[レースに負け続け最終的に死を選択した一人の若手ランナー]、という記憶が刻まれてしまったようだ。やがて青梅マラソンの案内書からもその名前が消えてしまった。初めて参加したレースは予想どうりの困難さ。完走もできず、途中でわき道を抜け我が家へそのまま帰ったのだった。同じ月、難産の末、元気な男の子が生まれた。

 

 その後、毎年参加するようになったが、なかなか完走できないでいた。ある時、友人が私の靴をみて[いつもそれで走っているの]と尋ねた。どうやら、その靴は相当に疲れはてたものだったらしい。翌年、新しいシューズを購入しあっけなく完走してしまった。

須賀川の地に降り立つ

時は流れて35年。あれから、青梅マラソンには毎回のように参加している。年令とともに、タイムは次第に落ちていく。が、それでも修行僧の如く、苦行に堪え忍んで走ってきた。もっとも私には、年に一度のお祭り気分を味わえる、非日常的な世界でもあるが。いつしか円谷幸吉のことはすっかり忘れてしまっていた。

 2年ほど前の夏の日、友人が、大学の学部生を連れ、福島の街を調査に行くという。よければ引率を兼ね、一緒に来ないかという誘いがあった。初めての街でもあるし、特に断る理由もないので、同行することにした。出発の3日前、多少の事柄は知らなくてはいけないと思い、ネットでその街[須賀川]を検索してみた。

 何度か調べているうちに、思わぬ名前が目に止まった。円谷幸吉、かの人である。東京オリンピックの、青梅マラソンの円谷幸吉が、なぜ須賀川の中に出てくるんだろう。とにかく不思議だったことを、いまでも覚えている。急に円谷幸吉のことが知りたくなってきた。20数名の学生には申し訳ないが、円谷幸吉の糸口となる場所に、立ち寄ってもらうこととした。

 

 須賀川アリーナ内の円谷幸吉メモリアルホールには、遺書や遺品そして東京オリンピックでの記念品などがところ狭しと並んでいる。当時のビデオが流れる。40年前の記憶が甦ってきた。どうやら私はこの人物の見かたを間違えたようだ。

東京オリンピックという分岐点

競争に負けた勝者

円谷幸吉は国立競技場の絶叫の中、ゴール100m手前で、英国のヒートリーにあえなく抜かれてしまった。戦後初のオリンピック。敗戦国日本が、戦勝国欧米に勝つかもしれない、その瞬間を期待した観衆の失望感は、そのどよめきが物語る。

 

 それはマラソンの駆け引きであり、ヒートリーは定石通り、レースを走ったまでの話しである。一方、追い付けないスピードで抜かれた円谷の心中はいかほどのものであったか。さぞ辛い100mであったろう。少なくとも、これから4年間、円谷幸吉は敗者の看板を背負っていかなくてはならないのであった。戦後の陸上競技において、初のメダリストにもかかわらず。

▲地元の新聞(須賀川:松尾芭蕉記念館にて入手)
▲地元の新聞(須賀川:松尾芭蕉記念館にて入手)

2位になった、ヒートリー、その後


青梅マラソンでの不運

▲第12回青梅マラソンガイドより
▲第12回青梅マラソンガイドより

円谷幸吉は、以来、いろいろな講演会や催しに呼ばれ、その栄誉を称えられたが、次のオリンピックでの銀メダルを約束せざるを得ない状況になっていった。

 

これまでは、練習すれば、成績があがっていくことから、楽しくてしかたなかった、と述べている。講演会の合間を縫って、これまで以上に練習を重ねたという。やがて持病の腰痛が再発していった。

 

青梅マラソンが企画されたのはその頃である。1967年の梅の咲き始めた早春の青梅路をひたすら走る。しかし冠大会ともいえるそのレースで、途中、腰痛を発症。山田軍蔵に抜かれ、2位に甘んじてしまった。

 

その後も、円谷幸吉は一生懸命走った。しかし、その年の夏から秋にかけ、両足のアキレス腱を切断してしまったのだ。メキシコオリンピックの前年のことである。

 

こういう時にこそ、力になってくれるのが、愉快な仲間、そして愛する人、なのだが。。。